「コードを書いた奴のほうが偉い」という身分階級差別

Jacob Kaplan-Moss というPythonエンジニアが、”The programming talent myth”という講演を行った。 http://lwn.net/SubscriberLink/641779/474137b50693725a/

(原語で読んだほうが良いが、訳した人も居る http://cpplover.blogspot.jp/2015/05/jacob-kaplan-mosspycon-2015.html )

大要は以下のとおりだろう。

「プログラマーの多くは中程度の能力であるが、プログラミング能力を厳密に測る手段が無い。したがって、プログラマーに対して、天才か無能か、という二分論でレッテルを貼る傾向が有る。
実際には、エンジニアの能力は多面的であるから、(性差別やホモフォビアや人種差別が害悪なのと同様で。)多様性を認めねばならない。」

ただ、彼のコンテクストには多分に、即物的な発想をしている印象が有る。何故このような差別が悪いのか、という問題提起の根底部分だ。


さて、「コードを書いた奴のほうが偉い」という身分階級差別思想をもっている人が、世界にたくさん居る。こういう手合いには、「コードを沢山書いた奴が偉い」という根性論や、コードを書かない人を侮蔑したり、プログラミング言語に疎い人に負担を強制したりする態度がみられる。「俺はコードが書けるから偉い」という尊大な態度をとる者が居る。

また、「デカいプロジェクトを創めた奴のほうが偉い」という差別思想をもっている人も多い。例えば、スティーブ・ジョブズや、リヌス・トーバルヅや、リチャード・ストールマンを崇拝する連中だ。

こういった発想は、プロプライエタリ構造においてはまだしも、フリーソフトウェア思想においては自己矛盾である。


 

プロプライエタリ、例えば Apple は、 「Macintosh はパソコンではなく Macintoshである」という「ラーメン二郎はラーメンではない」かの如きブランディングによって飯の種を維持している。ジョブズは、卑弥呼のように、シャーマンであり崇拝される偶像である。ジョブズが信仰されている限り、 Macintosh であれ iPod であれ、iPhone であれ、特別な何かであって、それはパソコンや携帯電話などではない。このブランディングを維持するために、所謂「知的財産権」という独占権益を用いて、プロプライエタリビジネスを行っている。

かつては、パソコンはメーカーごとに全く異なるものであり、 PC-9801 と FM-TOWNS と(…以下略)は、全く異なるものだった。それが、PC/AT互換機いわゆる「DOS/Vパソコン」がデファクトスタンダードになり、部品が台湾などで作られていること、またそのことが広く知られるようになり、どこのパソコンでも廉価で似たようなものになった。(FMVだろうがフローラだろうがアプリコットだろうがもはや似たようなものなのであり、PC-98×1は消え、日立や三菱電機のパソコン戦略は潰えた)。

だが今でも、 Macintosh は Macintosh なのであり、それは、ハードウェア仕様、デザイン、 MacOS、全てがワンパッケージで造られており、知的独占権によって他の侵入を許さないようになっている。そしてそのMacを信仰するユーザ層が未だに維持されているから、Appleの商売は潰えていないわけである。


ところが、フリーソフトウェア思想のもとでは、こういった信仰・崇拝は矛盾である。

フリーソフトウェア思想というのは即ち、「ソフトウェアは万人のものであり、誰も君主ではないし、隷属させられてはならない」ということである。強制であってはならず、解放でなければならない。

だからそこには、崇拝される人物が居て強制的な集金構造が成り立っている、ということがあってはおかしい。脅して贖宥状を売りつける腐敗カトリック教会だとか、役に立たない壺だの仏像だのを売りつけるだとか、足裏を見て脅すだとか、そういうカルト信仰があってはならないのである。

デカいプロジェクトを成し遂げた奴のほうが偉いなどという崇拝は、少なくとも、フリーソフトウェアとは矛盾する。


Linus も RMS も、今はコードを殆ど書いていない。Linusは、コードの閲読をして、バージョンナンバーを付けてリリースすることが仕事である。RMSなんか、Emacsの作者であったが、今はフリーソフトウェア運動の啓発にかかりきりであり、コーディングからはとっくに降りていることは知られている。

実際のところ、Linus も RMS も、主要な業務は宣伝活動になっている。世界中を飛び回って講演をしている。LinusがMLに送っているメールをみても国際便で移動するだとかいう話がしょっちゅう出てくる。FSFの広報誌みたら、RMSがどこそこで講演した、という話が毎回でてくる。

結局は、宣伝担当をすることで、他の数えきれないエンジニアの飯の種が保障されているのである。Linusがカリスマに持ち上げられていることで、オープンソースの商売が保たれ、少なからぬエンジニアがオープンソース企業に雇われている(IntelやGoogleなどに。枚挙にいとまがない)。RMSが啓発活動に廻っていることで、FSFの運営は保たれ、GNUプロジェクトはなりたっている。

RMSが宣伝担当なのはいいが、カリスマとして崇拝されるのは自己撞着である。おそらくRMS自身も、自身が崇拝されることには納得していないだろう。


現実には、世のほぼ全ての職業は、誰にでもやれる容易な仕事である。たとえ、遺伝性の特殊技能が必要なものであったとしても、その遺伝は努力して獲得したものではない。ましてや、どの家に産まれるかは、努力ではない。

プログラミングというのも、一定の遺伝的特性や、生まれ育ちで左右されている。それら運が同じ条件下であれば、誰でもやれる。

そもそも努力というのも、努力で獲得したものではなく、運である。何を言っているかわからないかもしれないので言い換えると、努力可能な状況を得られるかどうかは、運であり、努力ではない。

では、いったい何が評価され報酬が支払われるのか。

手間暇である。

人の肉体は有限である。だから、一人で全てのことをやれるわけがない。それで、他人にやってもらうのである。そこに報酬が発生する。


 

例えばコンビニ店員は誰でもやれるようにはなっている。しかし実際の業務は、何でもかんでもやらねばならず、手間暇がすさまじい。

最低賃金レベルの時給なのがおかしい。

「パートアルバイト募集 元気で明るい方」と書いてある。今時そんな人間は居ないと思うのだが。

要は、元気で明るい(風に見える)人のほうが、客にイチャモンつけられないので助かるのである。地域の掃き溜めみたいな店内を少しでも「掃除」して明るくする、湯屋の「千」(千尋)みたいな人が要るわけである。

そんな大変な業務なのに、最低賃金レベルしか出ない。

なぜか?

それは、即物的な社会だからである。拝金的と言い換えても差し支えない。「成果主義」とも呼ばれている。

さて、そんな社会で、プログラマやエンジニアも生きていけるのであろうか?

そもそも、カネや成果物というのは道具であって、人がそれらに支配されることがおかしい。この観点では、フリーソフトウェア思想であれ、コミュニズム(資本公有制)であれ、共通している。


フリーソフトウェアには、様々な contribute が発生している。コードを書くことだけではない。翻訳者が居て、宣伝する人が居て、ユーザーが居て、寄付者が居て、様々な働きが有機一体的に動いて、成り立っている。

だから言うまでもなく、「コードを書いた奴のほうが偉い」なんて発想は根絶されねばならない。

また、「デカいプロジェクトを成し遂げた奴のほうが偉い」という卑屈な偶像崇拝も廃されねばならないのである。

当然のように与え、当然のように受ける、生態系のような世界では、このような尊大と卑屈でまみれてはいない。当然のように書き、当然のように対価を支払う社会では、飯の種に困ることは無いのだ。

はたして人は、覚ってその域にまで達することが可能なのか。人類は賢いのか阿呆なのかの試金石なのである。

 

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