「俺達は中程度だから」という危険思想

先日に、Jacob Kaplan-Moss の PyCon 2015 内での講演のことについて書いた。

NVIDIA に怒るLinusを揶揄するようなことを言っていたようだが。”brilliant asshole”(輝かしき阿呆)ということで、天才エンジニアの暴走の例として挙げたようだ。

Linus はオープンソース陣営として、NVIDIAの閉鎖的な態度に怒ったに過ぎない。「怒り方にも工夫が要るだろう」というのならばそうだが。

ともかく、どうせLinusもJacobもそうだろうが、技術や製品の向上と(貨幣)経済の生産性という目的による即物的な発想をしている。

Jacob の講演も危険を含んだものだ。「どうせ我々は中程度のプログラマなんだから、フツーの人を歓迎すべきだ」という発想が有る。

無論、この発想は間違えている。

某日本国の昭和の如く「総中流」を美化する発想は、「フツーでいなければならない」という同化圧力と、相異性(diversity)の否定、当事者意識の欠落と、衆愚化(ファシズム)を生み出す。

現実には誰ひとりとして、同じものは居ない。もうこれは、存在論として、である。

「俺達はフツーの人間なんだから、フツーを許容すべきだ」という主張は、現実に反している。Jacobがどう思っているかはともかく、例えば「男も女もフツーなのだから女を歓迎すべきだ」という発想が出てきたら当然のことながら、「ホモセクシャルやトランスジェンダーやインターセックスは普通ではない」という話が出てくるだろう。そんな思想のファシスティックな危険さに比べたら、LinusがNVIDIAに怒って暴走しようが、「これはテストだから反応するな」と言って意味不明のインターネット投票項目を作って反応した奴が多いことに怒ろうが、大した問題では無い。

我々には一人として中程度の人間なんて居ないのだから、フツーでないことを歓迎すべきだ。「中程度」という概念は、何らかの基準に基づいて、平均だかメジアンだかモードだかわからないが、統計的に作出した妄想である。もう「理想気体」と同じく現実では無い。

誰ひとりとしてフツーではないからこそ、フツーではない者同士でやっていく努力が必要なのである。

「フツーでいい」というどこぞの思い違えた「ありのままー」的発想は、馴れ合って甘えて、当事者意識をもたずに逃げる生き方に繋がる。

誰もフツーではなく、他者のフツーではないことを評価し、己もフツーでないことを活かそうとすることが重要である。

例えば、左利きも、英語の読めない人もとても多い。俗に謂う「学習障害」も、盲や聾も、数えきれないほど居る。ましてや、赤の識別がしづらい程度の「色覚障害」は、いくらでも居る。

そういった人達はときに、ユーザとして一流だとも言える。彼らの意見がフィードバックされれば、より良いコンピュータが造れる。

しかし、フィードバックがなされなければ、何にもならない。

例えば、日本語話者が世界から閉じ籠もってガラパゴス化して多言語化から離れたら、ソフトウェアの多言語化は進まない。無論、English speakers の方も、多言語化の重要性に敬意をもたねばならない。「俺達は中流だから」という発想は、概念的に造り上げられた「中流」というマジョリティ(デファクトスタンダード)が横行するファシズム社会に繋がる。「英語は世界語」というデファクトスタンダードのもとで、日本語話者がこの既成事実を改めようともせず、そもそも、差別されていることの自覚が無い

はっきり典型的な例を挙げよう。 QWERTY キーマップがそうである。実は誰も得しない。QWERTYにしても、テンキーが右側に勝手にくっついて離れないのにしても、そういうキーボードがデフォルトで添付し世界中に流布させている現状は、(ポインティングデバイスが右に離れ過ぎ、キーボードが左に偏って)背骨が歪むことはあれ、誰も得はしない。ところが、(一部を除き)ほぼ誰もがQWERTYを「フツーだ」と思い、これに合わせる不毛な努力をしている。(もはや政治的に、例えば政府や国連により)抜本的に改められる様子は皆無である。「フツー」が現実を排除した一例である。


 

フィードバックを聴かなければ意味が無い。

例えば”Gentoo Linux”は、emerge のエラーメッセージが何時まで経っても意味不明で、しかもEnglishである。「レポートするときにはこのエラーログを貼れ」というメッセージが出力される。それで、フォーラムやバグリポートには、”Can’t emerge…”という類の投稿が絶えない。それに一々回答せねばならないという各個撃破のモグラたたきが続けられている。言うまでもなく、投稿する人はごく一部であり、それより多くの「泣き寝入り」がGentooから離れているわけである。

フィードバックを聴いて活かさねば意味が無い。語の定義の問題でもあるが、フィードバックの多くを「苦情」(complaint)として活かす発想をもたねば、ちっとも良くはならない。

「Gentooが(Portageが)わからない奴が悪い」「ebuildを(シェルスクリプトを)書かない奴が悪い」といった階級差別的発想があるから、何時まで経っても「Gentooは難しい」「Gentoo(コミュニティ)は怖い」という状態が無くならない。

例えば、企業の販売担当(俗称「営業」)が「商品が悪いから売上が出ない」と苦情を言う。商品開発者は「俺の商品が悪いわけがない。売る奴が下手なんだ」と言う。あるいは、「宣伝が足りない」だのなんだのと言う。言っているだけで互いに聴かないと意味が無い。もっといえば、顧客からの意見も聴かないと意味が無い。そして、それらのフィードバックをとりまとめる担当も必要である。

企業にしても有機体であり、販売担当も、製造担当も、開発担当も、広報担当も、閉じ籠もって帳簿を打っている者も、皆必要である。だが、勝手にやっているだけでは有機体として成り立たない。


少なくともフリーソフトウェアは、デモクラシー(誤訳であるが俗に謂う「民主主義」)である。

デモクラシーとは、支配するものと支配されるものが同じであること(治者と被治者の同一性)を意味する。古代ギリシャは身分階級差別があり政治参加は特権ではあったが、参加資格の有るものは全て当事者であり、自ら考え、意見を言い、行動していた。ときに戦闘に行った(反対に女や奴隷は庇護される側であり、徴兵はなされない)。つまり、参加資格者は皆、フツーに甘んじない努力が求められ、参加して見解を述べねばならなかった。

フリーソフトウェアは、デモクラシーであり、”contribute”とは「参加」である。

コードを書く奴も、コミットを閲読する奴も、マニュアルを書く奴も、翻訳をする奴も、ユーザも、そのフリーソフトウェアのプロジェクト共同体における参加者である。参加する気がない奴は、甘えであり、パラサイトに過ぎない。

誰もが、何らかの一流になれる。コードを書かなかろうが、ユーザとして一流の報告者になる方法もある。勿論のこと、donateという「カネで解決する」方法もあるが、それは一手段に過ぎない(これがプロプライエタリならば、カネで解決する手段を強制される)。

だが、誰ひとりとして、中流ではない。誰もが相異している。diversity(ダイバーシティ)はしばしば「多様性」と訳されてしまっているが、本質はこうなのである。

フリーソフトウェアはあくまでも一例であり、人類社会や地球や宇宙までもが、このような真理で動いている。例えば、生物のdiversityだってあり、そうでないと生態系は働かない。皆が劇の「主役」で目立ちたがったら劇にならないし、皆が指揮者になりたがったらオーケストラにはならない。同じように、誰もがフツーに埋もれていては有機体として機能しない。全ての細胞が皮膚であったら人体にならない。

 

 

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