道具に使われ溺れる時代

例えば「震災を忘れないために」などと言う人がいるが、忘れたくても忘れられない。
そもそも知らない世代に対して伝えていくことが必要なのであって、忘れるとかいうことは無い。
戦争を忘れるということも無かろうし、戦場を体験したことが無いということは有る。

今の世間は、道具と刺激で溢れかえっている。
今の若い人達は、携帯電話も普及していなかった時代を知らないかもしれない。

そもそも遡っていえばなにせ、インターネットも無かったし、ポケベルすらも無かったし、パソコンも無かったし、テレビも無かったし、ラジオも無かったし、電話も無かったわけである。
そういった状況で生きていくようにヒトは「進化」をしてきたのである。

即ち、ヒトは、ヒトの本来の暮らし方から乖離した生活環境を、故意に造り上げているのである。

そうして様々な道具を造り社会を造ったわけだけれども、殆どの人は、道具等を使っているというよりも、使われている。
例えば、WindowsやiOSの中身は判らないが、Androidであろうが、中身を気にする人は限られている。Androidの端末ハードウェアが古くてアップグレード不能になってもセキュリティホールわーいな事態を意識していない人は多い。

全部勝手にやってくれて、使われている。

例えば、社会構造に使われて、既存の企業に飼われ「社畜」となる。

同様に、国家の家畜にもなる。

そもそもは、道具は人が造ったものであり、社会も制度も人が造ったものである。

例えばカネは道具に過ぎない。所与の資源ではない。

ところが、使われている。飼われている。

プロプライエタリ企業の者達は、消費者や労働者を飼っているという害意があるかどうか、それは必ずしも一定しない。

ただ彼らは、カネに使われ、売上を出すことに必死である。自らの立場を堅持することに必死である。

つまり、皆、使われ、飼われてしまっている。

制御不能になってしまった。

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