能力の限界と、発想の愚鈍との相異

ヒトであるからには、能力には限界が有る。
肉体が有り物理的な限界が有る。起きていられる時間は限られ、生きて活動していられる年数が超次元化することは無い。たとえコールドスリープしても、そりゃ起きていない。

時間が限られているから、なにもかもは、やれない。
例えば、農業をやりながら漁もやり医者と弁護士もやる、ということは不可能だ。(近年はすっかり、兼業農家がほぼすべてだが、それは農作物の質の低下(種買って肥料と農薬やれば「日曜農家」でもやれる)という事態をもたらしている。)
おそらく、話せる言語数や、書きこなせるプログラミング言語数も、超次元に行けることは無いという気がする。

物理的な制約が有り、例えば生身では飛べないし、1000年生きられない。

不可能だから、誰かに託す必要が有る。誰かにしてもらわねばならない。
その協業で社会は成り立っていて、「分業」だとか「community driven」だとかも原点は同一なのだろう。

先日に書いた通り、コードを書く奴も居れば、翻訳をする奴も居て、テストをしてバグリポをする奴も居る。そうでないと、デカいプロジェクトは、やれない。


発想の貧困、愚鈍というのは、全く異なる概念である。

例えば、我々の殆どは、小学校と中学校に通わされていた。
そのため、同じことを皆でやらせるには効率的になっている(機械の歯車的、兵隊の鉄砲玉的)だが、皆、固定観念を刷り込まれて洗脳され呪われてしまっている。

だから例えば、「フリーソフトウェア」という概念を理解可能な者が多くはないわけである。
今時にコンピュータやソフトウェアは我々の殆どが用いているが、それでも、「フリーソフトウェア」が解らない人が大多数だ。

なにせ、そもそも「コミュニズム」や「デモクラシー」という概念が解らないのだから。

例えば、ソシアリズムは、社会を計画的に運営する思想だ。
コミュニズムは、資本を、公有にし、私有してはならないという思想だ。
デモクラシーは、政治のステイクホルダである一般人が、自ら政治に参加するという思想だ。

しかしこのような当然の概念が、学校なるところではまともに教えられず、親も知らないし、新聞やテレビにもまともに流れない。

だから、発想の愚鈍というのは、そもそも、物理的な限界でもなければ、努力の問題でもないのである。

いくら「頑張る」(←侮蔑表現でありスラングであるのだが、学校やマスコミや皆さんが用いるコピペワードである)をやったところで、どうにもならないわけである。

言い換えればあるいは、これが天才と愚者の差でもある。

親や学校やマスコミや周りの連中に洗脳されたら駄目になるのである。

「道具を使う」と「道具に使われる」の相異や、「政治に参加する」と「支配される」の相異もまた、ここから出てくる。

例えば、真の賢者は、プロプライエタリも自己責任でインストールして使用するかもしれない。賢者には、プロプライエタリでもインストール可能な Gentoo や Debian 等でも構わないのである。

だが、皆が皆覚った賢者であるわけではなく、殆どの者が「途半ば」の修業者の域である。

であるからして、ストールマン(RMS)なども、プロプライエタリのパッケージを提供するリポジトリの在るディストリビューションを非難するのかもしれない。
実際には、プロプライエタリでも使えなければ実生活に困ることがあるわけだが。

プロプライエタリを、知って道具として使うのと、解らずに使われるのとでは、発想の次元が根本的に異なる。

発想には超次元があるらしい。超えられない壁が。あるいはそれがブッダと凡夫の相異なのかもしれない

 

 

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