Systemd 専制の危機

Systemd が好きかと問われれば、嫌いである。

しかし問題の所在は好き嫌いではない。

Systemd がデファクトスタンダードと化し、カーネルにさえも侵入している実情が危険である。恐怖も覚える。

SysVinit は旧い、管理しづらい、良くない。しかしだからといって、Systemd にする必然性は全く無い。「Windows がだめなら Macintosh にすれば良い」と言うような屁理屈になっている。

言うまでもなくそもそも、OSがGNU/Linuxである必然性も無く、カーネルがLinuxである必然性も無い。

OSならばBSDも在るし、カーネルならばBSDだろうがMachであろうが良い。だから例えばGNUがMachを今も手がけていることは正常である。

既にSystemdは、udevを吸収し、また、cgroupはカーネルと一体となり、dbusまで書き換え始めている。この独裁の事態が危険である。

そもそも「オープンソース」とか言って、コンテナの乱用だとか実質プロプライエタリ化(ユーザの奴隷化)だとかいうように、拝金化しておかしなことをやる人達の方が社会的に声がデカくなっている。これでは全くもって、マイクロソフト専制君主と同じ実情である。

つまり各企業はマイクロソフトを王座から引き摺り下ろして、栄光を手にしたいということなのだろう。

それでは目的の定義を間違えている。

我々は、社会構造に支配されるという本末転倒から解放されねばならないのだ。己を解放せねばならない。そうしなければ、何のために生きているのかも解らない酔っ払いである。

貨幣や人間社会は道具に過ぎず、所与のものではない。地球や(人を含め)動植物は所与のものである。だから何のために生きるべきかは明白だ。

他人を迫害しては己にバチが返って来るのと同様に、地球を壊しては、我々は死ぬ。我々は一体であり、地球や宇宙は一体であるからだ。

ふざけている場合ではない。どうすれば資源エネルギーコストを減らして、皆が食いっぱぐれないようにしつつ、地球に恩返しをやれるのか、私はずっと考えているし、皆そうすべきだ。

それでともかく、Systemd がデファクトスタンダードになると、既成事実に我々は支配されるわけだし、また、Systemdしか無いということになればそれは脆弱性である。

多様であること、相違性があること、diversity, variety は、強靭さの源である

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